永遠の雨、雲間の光 - 第四話 遥かなる始まりの国(28) 



 ユィンが迎えに来たのは夜も更けた頃だった。僕が抜け出したことに気付いた様子もなく、いつもと変わらぬ無表情で彼は僕を牢へ連れ帰る。
 扉の前に見張りの兵士が二人立っている。これもいつものことだった。しかし、その夜の僕は気付いた。兵士たちの腰に黒い紐が巻かれていることに。ユィンが持つ灯りに照らされて、紐は確かに黒々と浮かび上がって見えた。
 救いはこれほど近くにあったのだった。手を伸ばせば届くほどに。
 衣の下に隠した短剣を握り締めた。今すぐ差し出しそうになる衝動を必死で堪える。
 扉が閉ざされた後は闇の中で苦しみにのた打ち回った。激しい熱が胸を焼いていた。
 もしかしたら父から解放される未来があるのかもしれない。
 不意打ちに舞い降りた希望は、きらきらと輝いて僕を誘った。救われたい、救われたらどんな気持ちだろう、自分の意志で人生を選ぶとはどれほどの幸せか……。想像しただけで死んでいた心が蘇る。絶望に凍りついた感情が融けていく。
 けれど希望に伸ばしかけた手はすぐ暗い気持ちに引きずり戻されてしまう。
“父は死ぬのだろうか?”
 一点。心に落ちた染みはたちまち広がる。冷たい短剣を胸に抱え、声を殺して泣いた。


「父は、死ぬのですか」
 あの時、僕の問いにラウス・ロウは答えた。
「生かすと約束することは出来ない」
 当然だ。約束すればラウス・ロウたちの身が危険に晒される。納得して僕は頷いた。これを使うも使わないも僕が決めればいい。手の中の物を見つめていると、
「しかし、」
 ラウス・ロウが言葉を継いだ。
「最後まで生かすよう努力をする。あなたに父殺しの罪を負わせたくはない」
 見下ろす瞳の憐れみを僕は忘れない。瞳は本心を映しているのだろうと思った。彼の言葉も本心だろうと。
 だからと言って惑いが消えるわけではなかった。


 しばらく変わりない日々を過ごした。父は子を貪り続け、貪られる子を眺める兵士が壁際に立つ。
「戦争へ行け。ラウス・ロウ」
 相変わらず父が繰り返す命令も儀式の一つになった。ラウス・ロウが応えない不満で父の暴力は増すのだが、暴力の激しさと比例して僕の感覚も麻痺していった。
 短剣を使うのか使わないのか。いつしか気持ちは使わない方向に傾いていた。もしかしたらこのまま何も変わらず、自分も何もしなくて済むのではないかと思い始めた。やはり、父と自分が死ぬまで耐えれば済むことなのでは。
 僕は忘れていたのだ。父が他人の拒絶を決して許さないこと。自分の欲求は、どんな手段を用いても叶えようとすることを。
「ラウス・ロウがやってくれないなら、仕方がない。こいつを使うしかないな」
 ある日、父が僕を指差して言った。
 正確には僕ではない――僕の頭部をだ。
 意味はまだ分からなかった。だが父の笑みを見て全身に悪寒が走った。いつかユィンが与えてくれた忠告が現実に近付いたことを悟った。“破滅”だと承知でも、“最後の手段”を使う。父はそういう人だ。
 悦に浸り笑う父。理由を知らない恐怖に震える僕。張り詰めた空気を破ったのはラウス・ロウだった。
「……承知、した。俺が兵を率いて戦おう」
 応えたラウス・ロウの視線が自分に注がれていることを感じた。
 彼は諦めかけている。僕が決断を降すことはない、差し出した救いの手を握ることはないと思い始めている。だからせめて僕の代わりに盾となり破滅を防ごうとしている。
 一刻の猶予もない。
 今が決断する最後の機会だと悟った。
 
 
 交代の時間、牢の見張り兵は扉を開けて中の様子を確認する。
 それが、日に二度。昼と夜更けとあり、黒を身に付けた兵士が来るのは夜更けだと確認していた。
 運良く次の日は父に連れて行かれることもなく部屋で過ごした。僕は扉の前で膝を抱え、黒い布で巻いた短剣を握り締めて時を待った。
 やがて日が暮れる。
 闇が降りて長い時が過ぎた頃、足音が近付いて来る。
 扉が開いた。廊下の灯りが隙間から差し込み、僕の顔を照らした。
 覗き込んだ兵士と僕の目が合った。僕は真っ直ぐに腕を伸ばして短剣を差し出した。
 兵士は少し意外そうに瞬きをし、僕の顔を見る。僕の瞳に揺らぎがないことを知ると緊張の面持ちで命令を受け取った。
 それから、深々と頭を下げて言った。
「かしこまりました。陛下」

 

 
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掲載2008年7月31日 著者 k.yoshino(吉野圭)