永遠の雨、雲間の光 - 第四話 遥かなる始まりの国(21) 



「真実を知ってしまわれたのですね」
 寝台の傍らで、傷の手当てをしながらユィンは呟いた。僕の耳にかかる溜息は憐れみを含む。
 窓から吹き込む冷たい風が胸の傷に沁みた。窓に新しく取り付けられた格子越しに見上げる空は、今日も青く澄み切っている。見つめていた空が明る過ぎて、室内に目を移すと視界が暗くなる。相変わらず湿気た石壁の臭いが鼻をつく。固く閉ざされた扉は以前よりも威圧を感じさせた。
 僕はまたあの寝室に戻っていた。
 最初に連れて来られた寝室、“皇帝の間”という名の牢獄に。
 今度は宮廷内を歩く自由も与えられなかった。扉には外側から錠が降ろされ、二人の兵士が向こう側に常に立っていた。ただ一人ユィンだけが出入りを許され、食事を運んだり汚れ物を取り替えたりする。
「私はお伝えしないようにとティオン様に申し上げたのですが……それが先帝のご意向でもありますし……公にされている話とは異なりますし。嘘のままで良かったのです。出来れば一生、ご存じないほうが陛下にはよろしかったのではないかと」
 隠していたことを罪と思っているのか。ユィンの声には懺悔の響きがあった。
 彼の懺悔は僕の心に触れることなく耳元を流れた。瞳に沁みる空の青を見つめたまま、僕は本心を吐いた。
「知っていた気がする。最初から本当は気付いていた。この体に流れる血の卑しさを、僕は」
 僕の胸の傷に布を巻いていたユィンの手が、止まった。
「僕は確かにあの男の息子だ。血は嘘をつけない。どのような嘘をついても、この体に流れる血は変えられないんだ」
 言ってからユィンの目を真っ直ぐ見つめた。
 青褪めた彼の顔は心なしか怯えているように見えた。僕が厳しい目をしていたのだろうか、それともこの目の中にあの男の気配を感じたのだろうか?
「だから、ユィン。どうかもう嘘はつかないで欲しい。何もかも教えてくれ。僕は……僕なら大丈夫だ。何を聞いても傷付いたり、壊れたりはしない」
「何を聞いても?」
「そうだ。もう何も感じない。だけど知りたいんだ。どうして自分が生まれたのか。どうしてここに居るのか。誰から生まれたのか。母は――僕を産んだ人は誰で、今どこでどうしているのか」
 ふっとユィンが目を逸らした。
「それは私から申し上げることではございません」
 また彼はいつものようにお互いの間に幕を降ろし、冷めた表情を繕って言う。しかしその頬は震えていた。
「ユィン。頼む。母は、今どこに」
 彼の着物の襟に縋(すが)って訊ねた。するとユィンは僕の手を取り、そっと離して立ち上がった。
「……ご存命ではありません」
 それだけ答えてユィンはうつむき黙り込む。
 僕は息をつき、微笑んだ。穏やかな気持ちだった。
「そうか」
 分かっていた。母がもうこの世にはいないということを。
 あの時、塔で見た映像で、赤子を抱えて来た兵士の衣には大量の血が付いていた。あれはおそらく、赤子を産んだ女の。母の、最期の。
「会いたかった……な」
 空を見上げて微笑み呟いた僕をユィンは暗い顔で見つめた。
 さすがに憐れに思ったのか。彼は寝台の横に置いてある、水を張った盥(たらい)を指差した。
「水面を鎮めて覗いて御覧なさい。いつでも母君にお会い出来るでしょう」
 言われたことの意味が分からず僕がぼんやり盥を眺めていると、ユィンが昔を懐かしむ笑顔で言った。
「あなたは母君に生き写しでらっしゃいますから」
 
 
 扉を激しく叩く音が穏やかな時を破った。
「いるのか。ユィン!」
 父だ。
 ユィンの顔から血の気が引く。僕は両手で耳を塞いだ。
「時間だ、出て来い」
 乱暴に扉が開け放たれた。
 ティオンは見開いた目で部屋を見回した。寝台の傍らにユィンの姿を認めると、口端を上げて笑った。
「子守の時間は終わりだ、ユィン」
 ずかずかと部屋に入って来て、
「来い」
 と叫んだかと思うと僕の腕を掴んで寝台から引きずり降ろした。
「おやめください。いったい何を?」
 ユィンが僕をかばって座り込みティオンの腕に縋りついたが、彼の手はたちまち振り払われた。
「教育だ。これからこいつを強く育てていかねばならん」
 僕はティオンに両腕を持たれて引きずられた。
 そのまま廊下へ出る。驚いている兵士たちの前を、僕の体は引きずられて行った。


「お待ちください、ティオン様! どうか!」
 廊下の半ばで駆けて来たユィンが追いついて叫んだ。彼の肩は荒い呼吸で波打っている。驚くべきことに、あの重い着物で全力疾走して来たのだ。いつも冷ややかな彼の額に玉の汗が浮かんでいた。
「陛下への乱暴はおやめください。後生です……お願い申し上げます」
 ティオンの足が止まり、鼻で笑う声が聴こえた。
「乱暴だと? 何を言う。子の教育は親として当然の義務だろう」
「しかし」
 背を向け歩き出そうとしたティオンにユィンはなおも追いすがろうとした。「やめろ」、誰のものか分からない声がその時、廊下に響いた。
「やめろ。ユィン」
 僕の声だった。無意識に叫んでいたのだった。
 ユィンが呆然と僕を見つめ返す。彼の目の下の隈が青く透けて見えた。その色を見て僕は、ユィンも憐れな人だと思った。
「もう、いい。構わないでくれ。それ以上、うるさいことを言えば君が罰せられる。皇帝である僕が処刑されることはない。でも君は、一介の家臣に過ぎない」
 君は殺されるかもしれない、と言ったのだ。打ちのめされた顔をしてユィンは僕を見た。悔しそうに頬を震わせ、下を向いて唇をきつく結ぶ。
 ティオンの嘲(あざけ)る声が頭上から降って来た。
「お互い、犠牲を覚悟してかばい合う。美しい君臣愛だな」
 ティオンが前を向いて歩き始めたので僕の体も引きずられてまた先へ進んだ。
 ユィンの姿が少しずつ遠くなり、やがて曲がり角で見えなくなった。



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掲載2008年2月29日 著者 k.yoshino(吉野圭)