永遠の雨、雲間の光 - 第四話 遥かなる始まりの国(19) *注、死体描写があります



 腐臭が強くなっていた。
 風に煽られ辺りを漂う臭いに、兵士たちの誰もが気付きながら何も言わなかった。
「この臭いは?」
 僕の問いかけに答える者もいない。
 皆一様に暗い顔で下を向き黙々と歩くだけだった。


 やがて臭いの正体が明らかとなる光景に遭遇した。
 ――いや、遭遇したのではない。それは見ざるを得ないものだった。何故なら、都の周囲一帯、余すところなくその光景で埋め尽くされていたのだから。
 人、人、人。
 かつて人だった肉の腐った物で、地は覆われていた。
 折り重なる死屍の多くは形を崩し、白い骨を晒している者もいる。
 かろうじて肉の原形を留めている者も、痩せ細った奇怪な体をしていた。まだ新しい幼子の屍は、小枝のような手を空に伸ばしたまま倒れている。
「……これは……どうして」
 死屍の野の中央に僕は呆然と立ち、問うた。
 しばらく答える余裕のある者はいなかった。周りの兵士たちは次々と座り込み嘔吐した。木の幹に手を当てて激しく嘔吐を続ける者もいる。眩暈を起こして倒れ込む者さえいた。
 しかし、僕は吐くことも出来ず立ち尽くしていた。
 ……何故だろう、屍を前にして不思議と心は静かだった。深い静寂に満たされ、ただ悲しみの想いで死屍を見つめていた。その想いは一瞬を焼き付けた絵のように静止して、心を覆った。
「飢えて死んだ人々です。殺された者もいます」
 ようやく問いに答えたのはハウクだった。僕を砂から救った兵士。会話を交わしたあの日以来、彼は常に僕の背後を守るかのように歩いていたのだった。
 落ち着いた性格の彼も、この惨状には顔をしかめて言う。
「我が国の多くの場所でこのような光景が見られます。なるべく避けて歩き、陛下のお目に触れさせないようにとの命令でしたが。都市部では一帯がこの有様ですので、避けることは出来ませんでした。汚い物をお見せしてしまい申し訳ありません」
「汚い、だと? 汚いとは思わない」
 鋭い声で答えた僕をハウクは慰めるように見た。
「しかし、このような光景は初めてご覧になるのでしょう。目の毒となります。私が背負って歩きますから、ここから先は目を覆って進まれてはどうですか」
「いけない。目を覆うことなど僕には出来ない」
 答えた自分の声は悲鳴に近かった。
 改めて足元を眺める。腐り果てて色を変えた肉。蟲(むし)たちに取り憑かれた傷口。かつて瞳が入っていた暗い穴。
 全て、つぶさに見ることが出来た。
 何もかも見なければいけないと感じていた。そして見たものを記憶に刻み付けなければならない。人間だった者たちの、人間としての悲しみを表す最期の形を。
 僕はハウクにすがりついた。彼の正直な性格に賭けたのだ。彼なら、きっと答えてくれる。
「お願いだ。どうか答えてくれ。どうしてこんなことになった? 誰がこの人たちを殺した? この国の誰が悪いんだ?」
 一瞬青褪めた彼の顔に決意がみなぎった。
 決意の奥に喜びも感じられる。これまで押し殺して来た想いを語ることの出来る喜びだ。彼は顔を紅潮させ真実を明かしてくれた。


「悪いのは誰なのか……。さあ、それは自分たちには分かりません。
 我が国は十五年前からこの状態です。
 反乱を起こした影島の民たちは全て殺されました。当然の報いだと言われています。
 しかしクオートと食料を生産していたのは、影島の民たちなのです。
 影島の民が滅んだために、あらゆる物資の供給が途絶えてしまいました。
 今の本国にはクオートはおろか、食料さえほとんどありません。
 本国の住人は大量に餓死しております。食べ物を奪う盗賊に殺される者も多くいます。
 この状況を打開すべく、ティオン様は他国の資源を求めて戦争を計画されているそうです。
 戦争に勝つためには厳しい統制が必要とのことで、少しでも謀叛の疑いがある者は処刑されます。
 裏切り者が出た家は一族ごと処刑されますし、街ごと潰されることもあります。
 ですが近ごろはたいした理由もなく、見せしめとしてティオン様の気の向くまま殺されているように思えます。
 ただでさえ人が少ないのに、さらに処刑されて減っていく。
 いったい、これで戦争が可能なのでしょうか。弱りきった我が国が他国を征服出来るものでしょうか?
 ティオン様は本当は何を恐れ、何を目的としてらっしゃるのですか?
 我々も今はこうして兵士の姿をしていますが、この間までは穏やかな生活を営んでいた民間人でした。
 国のために家中の品を捧げ、食べ物を捧げ、最後に残った身をこうして兵士として捧げているのです。
 我々にはもう捧げる物はありません……戦う力も、希望も、そもそも最初からありません。
 捧げる命すら、このように弱く無力です……」


 いつの間にか周囲に集まって来た兵士たちが驚いた表情で僕を見つめている。
 頬へ手をやると冷たかった。
 泣いていることに自分で気付けぬほど静かに、涙を落としていたのだった。濡れた頬が風に晒されて冷たくなっても、涙を止めることは出来なかった。
 意志を超えて涙は溢れる。
 あの静止した悲しみの場から、痛みを伴い、血の代わりに涙が零れ落ちて行く。
「そうか。よく分かった。誰か悪い者がいるとしたら僕だ。何も知らず玉座で眠りこけていて、あげく逃げ出して自分の人生を得ようとしていた。……済まなかった」
 呟いた僕の身を、すすり泣きが包んだ。
 周りに集まった兵士たちが泣いていた。深い苦悩が刻まれた顔を歪ませて。
 僕は詫びる気持ちでその場に膝を突いて平伏した。
 自分が殺したも同然の死屍が額の前にある。
 どの骨も肉も、慈しかった。
 ここに在る死が、たまらなく慈しく、悲しい。


 立ち上がった時、心は穏やかだった。泣いている兵士たちを振り返って言った。その時、自分は笑顔だったかもしれない。
「さあ。連れて帰ってくれ、牢獄に。今こそ僕が贄となって、あの人の横暴を食い止めよう」




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掲載2008年2月1日 著者 k.yoshino(吉野圭)