永遠の雨、雲間の光 - 第四話 遥かなる始まりの国(15)  



 冷たい石床に身を横たえレアは眠る。
 無造作に投げ出された金の巻き毛に指をからませ、僕は今日も一人で話し続ける。
「なあ……レア。外の世界はどんなふうなのだろう」
 石牢には窓一つない。石が仄かな光を発していなければ、完全な闇となるはずだ。空気はどこから入って来るのか。食事はどうしているのか。この場所と、レアについては分からないことばかりだった。ユィンに訊ねても答えてはくれなかった。
「君は外の世界を見たことがある?」
 目覚めてもまだ眠そうに瞼をこすっているレアに訊ねた。
 もちろん意味が通じるはずがない。何か問われていることだけ分かるのか、しきりに首を傾げている。
 意味が分かったとしてもレアの答えは決まっていた。見たことがない、だろう。
 幼い頃からたった一人この場所に閉じ込められて来た少女。僕より遥かに孤独な人生を彼女はどのように耐え、生き長らえて来たのだろう。
 瞼が熱くなった。彼女の頬を両手で包み、真っ直ぐ瞳を覗き込んで言った。
「僕は外の世界が見たいんだ。自分の国の本土をこの目で見てみたい。国民の姿を見たいよ。民の声が聞きたい。レア……出来れば君と一緒に」
 青い瞳を見開き彼女は僕を見つめ返す。
 次の瞬間、頬を輝かせて笑った。嬉しそうな、心から幸せそうな笑顔だった。
 言葉を理解したのではなく、心を読んでくれたのだと思う。君と一緒に外へ出たいという気持ちを。


 あれから毎日、石牢に通っていた。
 脅迫されているからではない。僕自身が通わずにいられなかった。レアに会わずにいられない。
 思えばティオンは始めから確信していたのだ。一度でも僕がレアに会えば、必ず魅了されると。何故なら僕とレアは同じ存在――たった一人、同じ絶望の境遇に置かれた者同士だからだ。
 レアは僕の鏡であり、もう一つの現在という気がした。もし女に生まれていれば僕も声を奪われ石牢に閉じ込められていたに違いない。だから彼女とは、叔父と姪という血の繋がり以上に強い絆を感じた。言葉は通じなくとも、人として扱われない同じ痛みが僕たちを結び付ける。
 日ごとに愛しさは深くなった。先生の他に、心を許せる人間に会ったのは初めてだった。先生に対する気持ちと違うところは、僕自身の手でこの人を守っていかなければ、と思うことだった。
 その思いは危険な希望を静かに育んだ。……
 ティオンはしばらく何も言っては来なかった。いつもの通り大人しく言うことを聞いてさえいれば、ティオンは納得する。石牢へ通っていることで、僕が素直に后を受け入れたと思っていたのかもしれない。
 少しの間、僕の平穏は約束された。
 レアも安全な身となった。ティオンが勝手にレアの部屋に出入りして、危害を加えることは出来なくなったからだ。今後はティオンがレアの部屋に立ち入ることはないし、兵士が無駄に死ぬこともないだろう。最高度に設定された迷路を潜り抜ける能力は、あの男にはない。
 “優秀な頭脳を持つ”と廷臣たちに賞賛されるティオンでさえ、鍵となる言葉を解読することは不可能だ。幼少時からダイ教授による特殊な訓練を受けた者、たとえばユィンや僕のような人間のみ解読出来る。
 ダイ教授はティオンに学問の真髄を授けなかったのだった。あの反乱事件で彼の学習が中断されたからなのか、それとも始めから先生はティオンの本性を見抜いていたのか。
 どちらにしても、これでユィンが重用されている理由が分かった。
 そして僕が何故、ダイ先生に託されたのかも。


 風は日ごと変わった。
 霧深い日は濃い緑の薫りに満ち、晴れた日は潮の薫りを運んで来た。
 しかし注意深く感覚を研ぎ済ませば、どんな日の風も微かな肉の腐った臭いを含んでいるのだった。
「楽しいですか」
 背後で砂利を踏む音がして、低い声が響いた。
 この時を待ち詫びていたのだが、近くで彼の声を聞くと体が震える。
「ラウス・ロウ」
 ラウス・ロウは剥き身の剣を両足の間に立て、長い外套で身を包むようにして立っていた。高い身長から僕を見下ろし、口端を上げてゆっくり発音する。深くて静かな、遠い波音に似た声だった。
「あなたはいつもここで空を見ている。空ばかり見ていて、それほど楽しいのですか?」
 レアのもとへ行って螺旋を抜け出た後、僕はいつもこの中庭でしばらく過ごすことにしていた。ぼんやり空を眺めている振りを装っていたが、本当はこの時を待っていたのだ。ここで待てば必ず、彼が姿を現すと思った。
 今、ようやく昼の中庭で二人きりだった。
 何人もの粛清に使われた剣が、相手の足元にある。怖くないと言えば嘘だった。しかし不思議にすらりと言葉が出た。
「楽しいです。空は美しい。それに、切なさを含んでいます。遥か遠い昔に全ての魂が一つだった頃の、懐かしい記憶。我々はあの空から来ました、そしていつかは空へ還るのです。空を見ていると早く空へ還りたいと思います。……還りたくてたまらない」
 知らず一粒の涙が頬に落ちていた。
 ラウス・ロウは少し驚いたように眉を上げたが、すぐ元の落ち着いた表情に戻った。
「還る前に、他の地から空を眺めたいとは思いませぬか」
 僕は柔らかく笑み息を吐いた。賭けは正しかった。この男には言葉が通じる。
 さらに勇気を奮い、彼の方へ一歩進んで言った。
「僕は他の地の空が、どんな色か知らない。知らないから見たいかどうかも分からない。ラウス・ロウよ、教えてはくれないか。外国の空の色を。あなたは外国から来たのだろう?」
 ラウス・ロウは表情を変えず僕を見つめた。
 二人の間を風が吹き抜けた。また強い腐臭がした。
「ほう」
 彼は呟き、片頬を上げて笑った。
「ようやくお目覚めか? 眠れる王子さま」
 くつ、と喉の奥から笑い声が聞こえる。
「遅いお目覚めで。王子さまの長いお昼寝に付き合わされて、民は待ちくたびれているでしょう」
 笑いながら彼は背を向けた。僕の問いに答えもせず行ってしまう。しかしその抑えられた足音で、僕は彼の誠実を知った。今日の会話がティオンに報告されることはないだろう。
 身震いして空を見た。
 希望は限りなく無に近い。けれど自分は、完全な孤独ではないのだった。
 
 

 
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掲載2007年10月26日  著者 k.yoshino(吉野圭)